本堂は、恒例法要(降誕会・報恩講等)や法話会(講演会)を行っている他、門徒の皆様の法事(年忌・祥月・月忌)の場所として、また、葬儀会場として利用ができます。最大、30名の椅子席にてご参拝ができ、本堂両サイドには、控室もご用意しています。
礼拝堂は、法事・葬儀(少人数)でのご使用の他、会議室や食事会場としても使用できます。
- 会議や食事会場としては最大24名まで利用できます。
2階には、本堂両サイドに洋間2部屋(各10名)と和室1部屋(6名)があります。法事や葬儀の親族の控室として利用ができます。また、1階奥には、最大36名が利用できる控室があります。
法事・葬儀の後の食事会場(接待場所)としてご利用ください。
[鐘楼]地元や有縁の人々2000人の懇念によって、昭和33年3月完成しました。法要の時や大晦日には、平和を願う人々の声として四方へ響き渡ります。
[親鸞聖人像]奉讃会員故今村より子によって昭和53年9月1日に建立され、関東一円を伝道して歩かれた聖人のお姿が偲ばれます。下の碑は歎異抄の「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、よろずのことみなもってそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」の文。
慈光院の歴史とあゆみ
慈光院の建っている場所は、1923(大正12)年9月、関東大震災で3万8千人余の焼死者を出した、陸軍本所被服廠跡です。震災後、築地本願寺、京都の本山から早速、救護の手がさしのべられ、救護所(現在のあそか病院)・託児所(現在の江東学園幼稚園)が、そして焼死した人々の追悼の場として、また残された方の心のより所としての説教所が設置されました。説教所は昭和3年9月1日、慈光院として、間口7間2尺奥行10間の本堂が新築され、御本尊の阿弥陀如来像は、京都美術学校教授森鳳声氏の作で、木曽桧を材としています。 以来念仏興隆の道場として、また地域の方々の精神的支柱としての歩みを続けています。
昭和20年3月9日夜の東京大空襲では、本所地区は焼土と化し、慈光院にも焼夷弾が落下しましたが、地元横網町会、本所消防団員の献身的な消化活動によって、焼失をまぬがれたと言います。戦後は大小さまざまな波乱を越えて、昭和30年の関東大震災33回忌を契機として、布教伝道の充実がはかられ、昭和33年3月には鐘楼が建立されました。以来、本所の地にその荘重な音色が流れるようになりました。昭和53年、本堂建立50周年にあたって慈光院門信徒はもとより、地元町会の支援によって、本堂改修が行われ、あわせて庫裡、境内の整備も完成し、浄土真宗弘通の道場としての偉容を完成した。
平成28年4月、新たな始まりとして慈光院本堂の改築が行われ、現在の新本堂が完成しました。